祖谷(徳島県三好市)
徳島県の祖谷地方は、徳島市、高松市、高知市からそれぞれ車で3時間ほど内陸に入った山深い地域。平家の落人伝説などでも有名な場所で、昔から「日本の原風景のような場所」と評されてきました。また、岐阜の白川郷、宮崎の椎葉村と並び日本三大秘境の一つとも称されており、祖谷渓沿いにある祖谷温泉は日本三大秘湯の一つと言われています。そんな「秘境」イメージの強い祖谷地方ですが、時代の変化や観光開発によって、秘境としての個性が徐々に失われつつあります。(写真左:祖谷渓)
茅葺き民家・集落の変容
先ず第一は、この地域の村落の建築様式の象徴ともいえる茅葺き屋根が姿を変えてしまったことです。写真左は、国指定重要文化財の「旧小采家住宅」です。祖谷地方に発達した構法で建てられた典型的な民家で、土壁を保護するためのヒシャギ竹という割竹で外壁を覆い、正面中央に前便所を備えています。かつては、急な山の斜面にこのような茅葺き屋根の民家と、畑、石垣などが点在していましたが、今はほとんどの民家の屋根が青、赤、銀色などのカラフルなトタンに覆われてしまいました。
茅葺きは、前の葺き替えから30年程度が経過すると、屋根表面の腐食や雨漏り、湿気などにより、垂木や締め縄等の腐食が進むため、全面的な葺き替えを行う必要がでてきます。屋根を補修したくても簡単にはできないことから、現存する茅葺きを保存するため、屋根をトタンで覆っています。
祖谷に限らず、全国的に茅葺き屋根が失われつつある背景には、素材の茅、麦わら、麻などの不足もさることながら、何といっても茅葺き屋根職人の不足が指摘されています。さらに祖谷の場合、急斜面の狭い土地で、民家の周囲は全て農作地のため、茅場(茅などの茂った場所)を作る余裕もありません。昔は、山奥の遠い茅場からの茅の調達や、河原への石垣の石の調達など、大変な労力と時間をかけて民家や集落を維持してきました。近年、地域の高齢化が進む中で、茅葺きを維持すること、集落の環境を維持することは、経済的にもコミュニティの構造的にも困難な状態になってしまいました。
茅葺き屋根の民家が景観的に美しいことは言うまでもありません。また、家の中は夏涼しく冬温かく、快適な湿度を保ち、防音効果もあるなど、自然素材の良さが指摘されています。室内に生けた花は長くもち、人の体にも優しいので住人が長生きするとか。天井が高いため、家の中は薄暗くなりますが、この暗さが日本家屋の光と影の文化の美しさでもあります。
祖谷の集落の美しさは、茅葺き屋根を中心とする建築様式だけではありません。主屋・納屋・隠居屋によって構成された伝統的な屋敷構え、屋敷地を支える「だるま積み」や「算木積み」などと呼ばれる石垣、水田や畑地を支える石垣、集落内の神社、薬師堂、鎮守の杜、今なお生活道として使われている里道(赤筋道)、そして、急傾斜地に築かれてきた民家や畑での人々の生活と農業の営みの姿そのものが、地域の風土・文化の奥深さでもあります。
祖谷に点在する集落のうち東祖谷の落合集落は、2005年に国の重伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)の指定を受けました。落合集落については保存・活用のガイドラインが作成され、茅葺きの復元を目指した支援が行われてきました。しかし、重伝建地区制度の補助金を貰えたとしても、一定(約2割)の自己負担が必要なため、なかなか茅葺きの復元に至ってはいません。このガイドラインでは、茅葺き復元ができない場合でも、カラフルなトタン屋根を(茅葺きの色に近い)茶色っぽいトタン屋根へ改修することなどを推奨・支援しているそうです。
なお、重伝建地区以外の集落の民家については、これまで支援が行われていませんでしたが、平成23-24年度に地区外の古民家の修復に対する補助事業も開始するそうです。伝建地区のような制度は、地区内と地区外の支援の格差がかえってまちづくりの障害になる例もあります。祖谷地域についても、落合集落のみに特化しないバランスのとれた地域文化の保全とまちづくりが、これからの課題の一つと言えるでしょう。
写真左:落合集落(出典:三好市観光サイト)
写真右:木村家住宅(釣井集落/国指定重要文化財)の石垣
『美しき日本の残像』(新潮社)や『犬と鬼』(講談社)などの著書で世界的に知られる東洋文化研究家のアレックス・カー氏の原点も祖谷にあり、落合集落から車で30分ほどの釣井集落に美しい茅葺きの家(古民家ちいおり/写真左)を所有されています。カー氏は、祖谷の地に惚れ込み、そしてこの民家に惚れ込み1973年に購入。以来、日本の自然・街並みの破壊や風土文化の衰退に警笛を鳴らし続けてきました。この民家は現在「篪庵(ちいおり)トラスト」として、自然農業や古民家・風習の保存に取り組みながら村の再生を目指すNPO法人の拠点となってます。
今回の祖谷訪問では、残念ながら改修工事準備のため見学の申し出は叶いませんでしたが、古民家ちいおりの外観だけでも拝見できればと釣井集落を訪れました。屋根も壁も老朽化が進んでいるそうですが、自然素材の家は時を経た質感を醸し出しており、周囲の緑と一体となった美しい佇まいがありました。前庭も含め、愛情のこもった手入れがなされているという印象を強く受けます。そして庭からの山々、峡谷の眺めが感動的。
篪庵トラストの活動が、祖谷、そして日本全国の地域風土・文化の保存・再生に繋がってゆくことを切に期待し応援してゆきたいと感じました。
秘境のなかの大規模観光開発
祖谷が姿を変えてゆくもう一つの大きな流れは、大規模な観光開発です。
近年の秘境ブームで多くの観光客が訪れる大歩危周辺や「祖谷のかずら橋」で有名な西祖谷付近には、大規模な駐車場施設がつくられました。特に、「祖谷のかずら橋」観光のためにつくられた「かずら橋夢舞台」(写真左/2006年完成)は、総事業費43億円をかけて建設された観光施設で、巨大駐車場、イベント広場、物産館、食堂、そして「活性化施設」と呼ばれる料理実習や研修会議のできるスペースなどが設けられています。観光客の増加で駐車場が不足し、休日や夏休み期間などの交通渋滞への対応策が必要だったとはいえ、美しい渓谷の真ん中にこのような巨大施設がつくられてしまいました。鉄骨剥き出しの足場、祖谷文化との関係性が感じられないガラス張りの物産館、巨大な駐車スペース…。平らな土地がないとはいえ、祖谷の地域資源に寄り添った工夫があればと感じました。そもそも大型バスを何台も収容できる駐車場は必要なのか?そして、駐車場以外の施設(大きな物産館、食堂、活性化施設など)を、この場所につくらなければならなかった理由は?
写真左:かずら橋夢舞台の物産館などが入った建物
写真右:上記の建物の前に広がる巨大な駐車スペース
世界の観光地を見渡せば、貴重な自然景観や集落、希少動植物などを守るため、大型バスの乗り入れ禁止は当たり前のこととして、乗用車の乗り入れやゴミの持ち込みを禁止したり、駐車場を観光スポットからかなり離れた場所に設置し、そこで乗用車から有料の低公害代替車などに乗り換えさせて観光客を運んだり、遠い駐車場から観光客を歩かせたり・・・と様々な工夫が凝らされています。
容易には辿り着けないという不便さに、秘境を旅する醍醐味の一つがあるのです。
「かずら橋夢舞台」は、祖谷を愛し、祖谷の良さを理解し、「秘境祖谷」ならではの個性を育ててゆきたいと願う住民の合意でつくられたものなのでしょうか。
大型の公共事業以外にも、様々な観光開発が行われたようです。その一つ、総工費2億8千万円をかけてつくられた「奥祖谷観光周遊モノレール」(写真左(出典:三好市観光サイト)/2006年開業)は、徳島県三好市が所有し、第三セクターの東祖谷観光開発株式会社により運営されているもの。同社が運営する温泉施設「いやしの温泉郷」を起終点として、子供から大人までを対象とする観光用2人乗りゴンドラです。
このゴンドラは、最大傾斜度40度の山林を登って下るもので、所要時間が70分にも及びますが、見える風景は山林ばかり。奥祖谷の峡谷や集落などの景色、山並みの風景などを眺められるならともかく、どこにでもある林の中を70分まわって戻ってくるだけ(ちなみに、山並みが見えるのは、僅か10秒)。森林浴はできますが、この施設をなぜ奥祖谷につくらなければならなかったのか、その意図が分かりませんでした。「全長、高低差、最大傾斜度、最頂標高の全てにおいて世界一(観光用モノレールとして)」というのが売りの一つのようですが、むしろ散策路だけ整備し、地に足付けて、木に触れたり、森林浴を楽しみながらハイキングする方が健康的かつ快適ではないかと感じました。70分のゴンドラは、途中にトイレもなく、停止することもできないため、乗車前のトイレは必須です。かぶと虫の顔が付いたゴンドラは幼児にはウケそうですが、わざわざ奥祖谷にまで来て子供に体験させたいかと考えると疑問です。夏休みの時期に訪問しましたが、居合わせた観光客は僅か一組でした。
ちなみに、これと同じような施設が大規模駐車場を擁する西祖谷の「祖谷ふれあい公園」にもあり、こちらは「てんとうむしモノライダー」(2004年開業)でした。
写真左下:祖谷ふれあい公園の「てんとうむしモノライダー」
写真中央下:祖谷ふれあい公園の巨大な「ロマン橋」(奥に見えるのがモノライダー乗り場 / 出典:三好市観光サイト)
写真右下:祖谷ふれあい公園の大型駐車場(ロマン橋から撮影)
奥祖谷観光周遊モノレールの構想に当たっては、当初、観光客誘致のロープウエイが計画されていたものの、環境破壊を懸念する声などを受け、現在の簡易なゴンドラに変更したという経緯もあったと聞きました。いずれにせよ、地域の自然・歴史文化と無関係な遊戯施設で観光客を誘致しようという発想は、サステナブルな地域づくりにつながりません。このようなものがなくとも、祖谷には世界中からの観光客を惹き付けるだけの自然と地域文化があります。また、このようなものをつくることが、祖谷本来の個性を損ない、画一的な地域へと変貌させてしまう切っ掛けになりかねません。
上述のアレックス・カー氏の著書においても、日本各地で行われてきた自然、山村、街並みの破壊や強引な公共事業に対する強い抗議が綴られていますが、そのカー氏のお膝元である祖谷でさえ危機に晒されている現実があります。
大型観光施設・駐車場やモノレールに使うことのできる資金・知恵・人力を、祖谷の茅葺き民家の復元や、集落の環境保存、そして真の意味での「祖谷だからできる」持続可能な観光振興に注いでいただきたい。将来にわたり祖谷が祖谷であり続ける「秘境祖谷」としての魅力づくりに何が必要か?地域の力が試されています。
(2011年9月)