Hoi An(ベトナム)

歴史的なまちなみに人々の生活が息づく

ベトナムの中部に古都ホイアンがあります。ホイアンは、2世紀から17世紀にかけてベトナム中部の海岸地帯を治めていたチャンパ王国の港町であり、ベトナム最後の王朝であるグェン王朝の外港でもありました。太平洋を望むホイアンの港町には、チャンパ王国の時代からアジア諸国の貿易商が頻繁に寄港し、海のシルクロードの拠点として栄えました。特に、16〜18世紀には、中国、日本、インド、トルコなどを結ぶ東西貿易の中核を担う港町として最盛期を迎えます。
長崎から多くの朱印船が寄港した17世紀初頭には、絹糸、絹織物、砂糖、香木などの輸入を目指してホイアンに多くの日本人貿易商が集い、日本人町もつくられました。日本人が建てたとされる屋根付きの橋「遠来橋(別名:日本橋)」(写真左上)は、ホイアン一の見どころとなっています。遠来橋は、中国風の外観ですが、日本人が建てた当時は和の雰囲気の橋だったのではないか…と想像します。いずれにせよ、屋根の付いた橋というのは、どれも魅力的なランドマークになっています。世界中あちこちで見かける屋根付き橋(covered bridge)は、その構造・材質・デザインは異なるものの、どれもどことなく詩的な風景をつくり出しています。

話をホイアンに戻しましょう。この来遠橋の中の小さな祠で購入した案内書の一つに昭和女子大学国際文化研究所編集制作のカタログ『HOIAN』(町並み保存のための国際技術協力事業(1992-95)の概要)がありました。この本には、古い絵図や修復前の家屋の写真など、興味深い資料が掲載されていました。

写真左:17世紀の朱印船交易図(『HOIAN』から引用)
写真右下:ホイアンの日本人町(”HOIAN” から引用 / 名古屋情妙寺に伝わる茶屋新六交趾国貿易渡海図)

上の地図と絵図を拡大してご覧下さい。ホイアンが朱印船航路の中央に位置していたことがよく分かります。朱印船が海外交易を行っていたのは17世紀初頭の30年ほどの短い期間ですが、その間、350隻以上の日本の船が現在の台湾、ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシア、フィリピンなどへ渡航しており、活発な外交・貿易が行われていたことを窺い知ることができます。
17世紀のホイアン日本人町の街区は三丁(約327m)ほどであったと記録されているそうです。その多くが二階建ての木造の建物で、絵図を見ると、強い日差しを除けるためか、一階上部の深い軒庇が並んでいる姿が印象的です。
朱印船交易の最盛期には一千人もの日本人が暮らしていたとされる日本人町ですが、江戸幕府の鎖国政策により、徐々に衰退してゆきました。

現在のホイアンの街なみは、18世紀後半以降、中国人によって建設されたものが大半を占めており、中国南部の木造民家のまちなみの特色を受け継いでいます。
上の2枚の写真は、ホイアンの発掘調査により「日本人町があった場所」とされるグエンティミンカイ通りの今の姿です。現在の建物外観は中国風ですが、平入りの屋根に軒庇の続く二層の家並みに、上の絵図の日本人町との繋がりを感じます。

さて、まちの案内や歴史的建造物の解説は上述の『HOIAN』や観光案内書籍に譲るとして、ここでは、ホイアンで見かけたホイアンならではのまちの様子や市民の生活風景をご紹介したいと思います。

ホイアンの街には、シルク専門店や、蚕養殖→生地織り→シルク絵づくりの工程を見せてくれる店(写真左上)、香木の専門店(写真右上)などが並んでいます。朱印船貿易の時代、ホイアンから日本に輸出されていた絹織物や香木の生産は、今なおベトナムの主要産業の一角を占めています。ホイアン近郊には良質の桑が多く、良質の蚕がよく育つ環境にあります。また、香木の中でも最良の質を誇る「伽羅(きゃら)」をはじめとする沈香も、ベトナム中部が原産です。近年、入手困難となってしまった天然の沈香にかわり、人工栽培による沈香も生産されるようになり、ホイアンの香木店で購入することができます。
なお、朱印船を介して、日本からは銅銭や刀などの金属類が輸出されていました。現在のベトナム通貨「ドン」は、日本の「銅銭」に由来するそうです。

日本の鎖国以降、中国商人のまちとして発達したホイアンでは、地元の人々の生活の中に中国文化が根付いています。上と左の写真は、まちで見かけた風景。道端で中国将棋(シャンチー)に興じる老人や、大きな将棋盤を壁に立てかけてシャンチーを楽しむ人々。
まちの小さい広場では、子供達による中国武術のお披露目も行われていました。(観光向けではない。)
また、毎月、旧暦の満月の夜には、店舗や家の前に小さなテーブルを出し、線香を焚いて、花や果物などのお月様へのお供えをします。日本でも、中秋の名月に月見団子や秋の七草などをお供えしますが、これと似た習慣ではないかと思います。

左の写真は、まちの床屋と、ホイアン料理の「ホワイトローズ(米粉で作った皮に海老のすり身を詰めて蒸したもの)」をつくる女性。
日々の生活の姿が、ホイアンのまちの風景にとけ込んでいます。

ホイアンはランタン(中国風の紙製や布製の提灯)の産地でもあります。
毎月、旧暦の満月の夜には、ランタンが灯されるFull Moon Festival(「ランタン祭り」とも呼ばれる。)が催されます。
夜7時になると、街灯だけではなく、家や店の室内外の灯りが全て消され、まちは真っ暗になりますが、その代わりにランタンだけが灯されます。まちを流れるトゥボン川へは灯籠流しも行われます。まち全体がランタンや灯籠流しの光に彩られた幻想的な雰囲気に包まれ、ホイアン独特の夜の情緒を演出します。爽やかな夜の空気を感じながら、ランタンの光があちこちに浮かぶ夜道のそぞろ歩きは、これまで味わったことのない心和む体験でした。
ランタン自体は昔から使われていたものの、現在のようにランタンを売る店が急増し、ホイアンが「ランタンの町」とまで呼ばれるようになったのは、観光地化が進んだ1990年代半ばになってからとのこと。
かつて中国商人の生活を照らしていたランタンが、いま、観光の火付け役として、ホイアンのまちを照らしています。

観光政策の恩恵と、観光地としての発展がもたらす弊害

ホイアンの歴史的なまちなみが注目を浴び始めたのは1980年代に入ってからです。ベトナム政府は、1985年にホイアン旧市街を国の重要文化財に指定しました。
ホイアン旧市街の建物群は、毎年の洪水被害の影響もあり痛みが酷く、喫緊の対応が迫られていました。上述の『HOIAN』で紹介されている日本の文化庁による町並み保存のための国際協力事業(1991年〜1995年)などの支援を受けながら、建築史分析、建築調査、住民ヒアリング、建物修復などが行われました。
伝統的木造家屋の修復が徐々に進む中で、古いまちなみを観に訪れる観光客も増加し、これにランタン祭りなどの地場産業の活動が拍車をかけ、1994年頃からホイアンのまちは急速に観光地化します。そして、1999年には、ホイアン旧市街がユネスコの世界遺産に登録されました。ホイアンの世界遺産としての価値は、「歴史的な国際貿易港として発達した街の形状がよく保存されていること」と「ベトナムの伝統的な木造建築などで構成される建造物群が、ホイアンにしかみられない独特の景観を呈していること」(『HOIAN』から抜粋)であると評価されています。

一方、観光客数の増加とともに、観光地化の弊害も現れています。その代表的なものが、土産物店や飲食店の増加による土地利用の変化、土産物店の商品の通りへの溢れ出し、店舗の巨大かつ高彩度色を多用した看板類の増加、建物の派手な外壁塗装への塗り替えなどです。これによりホイアン旧市街のまちなみは昔ながらの雰囲気を急激に失いつつあります。
ホイアン市では、町並み保存条例を制定し、住民の増改築の指導・支援を行うとともに、大きい看板類の撤去や、商品の溢れ出しの規制、車両規制(歩行者専用道路化)などを進めているそうです。

このような観光地化による弊害は、ホイアン固有のものではなく、どこの観光地にも見られることであり、特に、世界遺産登録を受けた観光地では顕著です。
そもそも世界遺産登録の目的は、貴重な地域資源の保全であり、観光開発の促進ではありません。しかし、登録が観光産業に大きな影響を及ぼすため、世界各地で登録申請の動きは衰えることなく、結果として、登録後の観光地化による地域資源の質の低下が問題となっています。
一方で、途上国などでは、地域の観光産業の活性化を図ることにより地域経済の立て直しを行い、それが結果的に世界遺産を地域独自の力で守る経済的基盤づくりや住民意識の向上につながることも評価されています。
地域資源の保全を継続的に図りながら、地域の観光産業が(急激ではなく)徐々に発展してゆけるような仕組みづくりが重要ということでしょう。

その地域にとって何が真の魅力となっているのか?何が将来の魅力となるのか? そこを見極め、大切に育ててゆきながら、他方で「観光地化されすぎないため」の住民・事業者間のルールや規制をつくり共有してゆくことが課題といえます。

(2012年1月)

写真上左:毎年雨期に訪れる洪水の水位を記録する柱
写真上中央:建物の老朽化が進む路地
写真上右:歴史的建造物の修復も遅れている(写真は、遠来橋の天井)

写真上左:屋根の瓦と瓦の間に苔や雑草が生茂り、雨水を建物内に引き込む原因に。
写真上右:商品の溢れ出しは、加速しているようにみえた。
写真左:車両通行止めのサイン「Walking Street」が掲げられた植栽プランター