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歴史的環境保全型のまちづくりの代表的な手法として従来から取り組まれてきた古い建造物の保全、復元、修復等について、香港で様々な動きが出てきています。

スターフェリー乗船場の閉鎖を切っ掛けとした歴史的建造物保存の動き

歴史的な街並みや建造物の保存運動は、ヨーロッパでは半世紀以上前から、日本でも70年代の始め頃から盛んになりました。
一方、香港では、80年代後半から徐々に活発化し始め、上環のウェスタン・マーケットの再生などが行われましたが、高層ビルをはじめとする建築ラッシュの勢いは止まらず、政府もあくまで開発優先の姿勢を貫いているようにみえました。
しかし、2006年11月の中環スターフェリー乗船場の閉鎖・取り壊しを機に、市民による歴史的な建造物取り壊しに対する反対運動が盛り上がり、その声は、これまの香港が経験していなかったほどの高まりを見せ、今日まで続いています。

2006年に取り壊しの対象となったのは、香港島と九龍半島を結ぶ香港名物の連絡船・スターフェリーの香港島中環(セントラル)側の乗り場です。この乗船場は1958年に建設。エディンバラ公爵フィリップ王子から贈られたという時計台を中央に配したシンプルな白い建物で、約半世紀にわたり市民の足を支えてきました。しかし、埋め立て・湾岸道路建設のため閉鎖されることになりました。閉鎖直後から、多くの市民が中環埠頭で抗議集会を開き、歴史的建造物としての時計台の保存を主張。警察と揉み合う姿などもメディアに大きく取り上げられました。やがてこの動きは「集体回憶(=地域・社会が共有する記憶・イメージ)」というスローガンへと発展し、香港各地で予定されていた再開発事業への反対運動などを引き起こす切っ掛けにもなったと言われています。

翻って、初代の中環スターフェリー乗船場(1903〜1945)は、中央に時計台、ファサード正面に大きなアーチ型の採光窓と両脇の小窓、雨よけの庇屋根など、細かい装飾の施された趣のある建物でした。一方、2006年に取り壊されたものは三代目(1958〜2006)にあたり、由緒ある時計台があるものの、初代の建物のような色気はなく、陸屋根のシンプルなつくりです。二代目(1945〜1958)は、写真からははっきり見て取れませんが、時計台と横長の建物の風貌から、三代目と似た造りだったのではないかと思われます。
そして新たに建設された現在の乗船場は四代目となりますが、初代乗船場の雰囲気を模してデザインされたとのこと。ファサードは初代のそれととても良く似ています。真新しい壁面の色彩や、建物の材質が醸し出す質感などからか・・・「ディズニーランドのよう」と市民から揶揄されることもあるそうです。


初代中環スターフェリー乗船場    2代目乗船場


3代目乗船場            4代目乗船場

このように中環の乗船場は四代にわたりその姿を変化させてきました。時の経過とともに市民の評価は異なり、どれが一番美しいとか良いと一概に評価できる次元の話ではありません。真新しい四代目の乗船場も、今後、時が経つにつれ市民の生活の中にとけ込み、受け入れられてゆくものと思います。

特筆すべきは、今回の乗船場閉鎖への反対運動を機に始まった市民発の歴史的建造物保存の動きであり、「地域の記憶」を「地域の文化」として大切にしたいと願う民意の成熟です。1997年の中国返還以降、中国本土からの影響が強まる中で、香港市民は「香港らしさ」をどのように守り、つくり、育ててゆくか自問自答してきたといいます。中環埠頭での抗議集会は、再開発による経済的なメリットよりも、香港らしさ、そして中環らしさの象徴である文化財を残したい、歴史的な空間の記憶を大切にしたいと切に望む市民の想いの現れであり、市民の価値観の高まりが形となって現れた瞬間でした。


公共建築物・公共スペースの保存と再利用

スターフェリー乗船場での反対運動の1年ほど前、お隣のマカオでは、8つの広場と22の歴史的建造物が集まる地域が「マカオ歴史市街地区」としてユネスコ世界文化遺産となり(2005年7月登録)、大きな観光需要をつくり出していました。そして香港でも、上述のような歴史的建造物取り壊しへの反発が強まる中で、高層ビルや大型インフラの開発により古い建物が失われてゆくことによる経済的損失が議論されるようになり、政府は開発の方針を方向転換せざるを得ない状況に追い込まれることに。早速、翌2007年の施政方針に「歴史的な価値のある建造物の保存・活用の推進」を盛り込み、これまでの経済効率優先のまちづくりから徐々に舵を切り始めました。

以下に、警察署や消防署など従来から町のランドマークとなっていた歴史的価値のある公共建築物の保存・再生の事例を紹介します。

2009年の秋に香港一の商業エリアである尖沙咀のカントン・ロード沿い(スターフェリー乗船場のすぐそば)にオープンした「1881 Heritage」(写真左))はその代表格で、水上警察署、消防局、寄宿舎、厩舎などの建物をリニューアルしてつくられました。建物正面の広場には石張りの香港の古地図を配し、高級ホテルのコンセルジュのようなスタッフが施設内を巡り建物の歴史などについて解説するヘリテージ・ツアーなども行われており、香港の歴史を感じることのできる空間としての工夫が凝らされています。
しかし、新たな観光資源として評価される一方で、5つ星ホテルや高級ブティック、レストランなどが入る典型的な商業開発となってしまい、富裕層のみを対象とした施設へ作り替えられてしまった・・との地元の批判にもさらされています。
確かに現地を訪れてみると、ハード面は、建物の個性を活かし「香港水上警察署跡地ならでは」の空間をつくり上げている一方で、中身は他の高級ショッピングセンターと変わらない店構え・サービスに留まり、人通りもまばらで、建物の写真を撮りにくる観光客が中心といった雰囲気です。また、そもそも海に面した造りだったという建物の性格もありますが、尖沙咀の一大商業地区に隣接しながら周囲との関係性やアクセス面に欠けた点も気になりました。
もともとこの水上警察署をはじめとする建造物群とこれらを取り囲む空間は、外観・立地・歴史的背景の全ての側面において極めて個性的な魅力を兼ね備えているだけに、機能の部分においてもハードと同様の試行錯誤ができなかったのか、また、スターフェリー乗船場と尖沙咀の商業地区を結ぶ連結点として何らかの役割を担えなかったのかなど、ソフトや周辺地域との関わりの面で、残念な印象を持ちました。

一方、中環地区のハリウッド・ロード沿いにある中区警署(セントラル警察署/写真左・左下)は、2006年にその役割を終え、歴史的建造物の指定を受けました。19世紀半ばから20世紀初頭にかけて建てられた建物群の多くは、ビクトリア朝時代に流行した英国のネオクラシック様式で、警察本部(1919)のほか、裁判所(1913)、監獄(D Hall/1858)、兵舎などの複数の施設が集まり、中環地区の賑やかな繁華街の中央にありながらも、植民地時代の雰囲気の漂う大きな区画を形成しています。

2007年秋、この庁舎の周囲に50階建ての高層ビルや劇場を建てる計画が提示されましたが、歴史的な地区に相応しくないと市民団体による反対運動が起こり、見直すことに。再開発計画の費用をサポートしている香港ジョッキークラブ慈善基金(HKJC)は、2007年から2008年にかけて6ヶ月にわたる市民意見聴取を実施。さらに政府が2009年から2010年にかけて環境アセスメント(EIA)を実施し、地元の声を取り込みながら、この地に相応しい土地利用や再開発のあり方についての検討が重ねられてきました。
そして2010年10月、政府とHKJCは「中区警署を保存・再生し、歴史的遺産・芸術・娯楽の中心地とする」旨の声明を発表。一部に商業施設を配置するものの、大部分をギャラリーなどの展示室、多目的ホール、図書館、歴史・芸術関係の団体のオフィス、緑地・オープンスペースなどを中心とした非営利のアート施設とすることを決定しました。さらに2011年初頭には、区画内の建物の考古学的調査も行われ、磁器などの埋蔵品や過去に取り壊された建物の基礎部分などを発見(調査は2011年3月に終了)、今後の設計業務等へのフィードバックが予定されています。
中区警署の修復・建設事業の開始は2011年度中に予定されており、香港美術界の中核となる大規模な総合芸術施設の誕生が期待されています。
今回の再開発では、建物・敷地の歴史的な外観はさることながら、中区警署と香港の歴史的背景を十分に生かしたソフトの充実が望まれます。また、隣接するSOHOや蘭桂坊などの周辺商業地区との関係をどのように生かし、どのように人々が往来できるようにするのか、中区警署のあり方は中環地区全体のまちづくりにとっても重要な役割を担っています。新しい中区警署が市民の生活空間の一部としてとけ込み、かつ、地域文化の発展を牽引するエリアとなることを期待しています。

唐楼の保存と再利用

上述のように香港では大規模な公共建築物や公共スペースの保存・リニューアルが活発化していますが、一方で、住宅や店舗などの民間使用の建築物についても、様々な動きが出てきています。高層ビルの建ち並ぶ市街地の足元には、まだ古い住宅・店舗等の建造物が多く残っており、リニューアルすれば歴史的建造物として活用できる資産が山のようにあるのです。
これらの古い建物は、老朽化しそのまま使われていない、つまり空家になっているものか、または、老朽化しているがまだそこに人が生活し、または商売を営んでいるものです。その多くは、20世紀前半を中心として建てられた典型的な庶民の住宅である「唐楼(唐人=中国人の建物)」と呼ばれる4-9階建てほどの中・低層アパート(兼店舗)で、エレベータやガスなどの設備が未整備で不便な反面、新しいアパートより部屋が広く天井も高いなど、リニューアルして活用できる素地を持ち合わせています。特に、香港島の湾仔(ワンチャイ)や銅鑼湾(コーズウェイ・ベイ)、九龍サイドの油麻地(ヤウマテイ)には、古い唐楼が多く残っており、近年、歴史的建造物としての保存・活用の対象としても注目を集めています。


湾仔の中心を走る大通り「皇后大道東」沿いのエリアでは、唐楼をリニューアルして文化財として残しながら、住宅や店舗として活用する取組みが活発化しています。上の写真は、湾仔のジョンストン通りの唐楼の改修前(写真上左)と改修後(写真上中央・上右)で、高級レストラン「The Pawn」となりました。(改修前の写真は、The Pawn屋上の展示写真を撮影)
この建物は1880年代に建てられ、地域の老舗の質屋の一家(Lo Family)が所有していました。2階、3階の窓を全て取り除き手すりを付けてテラスとし、最上階は気持ちの良いルーフトップガーデンとなりました。

また、左の写真は、湾仔の船街の唐楼の改修前(写真左)と改修後(写真右)(The Pawn Roof屋上の展示写真を撮影)のもので、こちらも高級レストランになりました。
上述「公共建築物・スペースの保存と再利用」のところで紹介した1881Heritageと同様に、湾仔のこれらの高級レストランについても、地区のランドマークとなった観光資源としての評価がある一方、庶民の生活からかけ離れた施設へつくり変えられてしまったとの地元の批判があるそうです。
政府はこのような地域の動きを踏まえ、2008年に「文物保育専員弁事処」という歴史的建造物等の検査や評価を行う部署を設立。唐楼をはじめとする古い建造物の検査・評価を行っています。保存・再利用の価値があると認められたものについては、地元住民の参加や地域の雇用創出などを条件に、政府が改装工事費用や開業後の運営資金を支援する仕組みとなっています。

左の写真は、20世紀初めに寺院の附属病院として建設された「藍屋」と呼ばれる建物です。2010年末から、住民が住み続けながら段階的に改築し、新しい住民やテナントを受け入れてゆくスタイルの事業を始めました。
歴史的な建造物の保存・再利用も、見せ物とせずに、そこに地元の人々の生活を根付かせてこそ、真の意味での地域文化が定着すると言えるでしょう。住民が立ち退きを迫られ、大手企業が新しい商売を手がけるタイプの開発が主流だった従来型の歴史的建造物保存・再利用の流れが見直され、地域住民のものへと変わりつつあります。
藍屋のリニューアル計画は、住宅のほか、歴史資料館、コミュニティーセンター、飲食店舗などを併設する予定とのこと。今後は、このような地元の人々の生活を維持しながら建物を保存・活用していく動きが益々増えてゆくものと期待されています。

なお、2010年1月に九龍サイドの紅磡 (ホンハム)にあった唐楼が倒壊するという事件が起きました。この唐楼は、築50年を超える5階建ての建物で、1階店舗の改装工事中に突如崩れ始め、僅か10数秒で倒壊したといいます。唐楼のような古いアパートは、堅固に建てられた公共建築物よりも遥かに老朽化のリスクが高いため、その保存・再利用に当たっては、十分な検査や安全の確保が必要なことは言うまでもありません。

客家の城壁村の行方

今回の香港滞在を通して、上述のような唐楼の建物よりも遥かに歴史的な価値が高く、その保存・再利用への取組みを急がなければならないと感じたのが、客家の建造物です。香港の中心部から地下鉄や電車で30分〜1時間のベッドタウンには、客家の城壁村が数カ所残っており、人々がまだ生活しているところもあります。客家とは「古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国北東部の大族の末裔であることが多い。漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な漢民族である。歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では原住民から見て”よそ者”であるため、客家と呼ばれ、原住民との軋轢も多かった。(以上、ウィキペディアから抜粋)」
客家の住まいとしては、ユネスコ世界遺産でもある福建省山間部にある「福建土楼」という円形や方形の集合住宅が有名ですが、香港に移り住んできた客家人の多くは、「圍(=囲)」という低い城壁のような囲いの中に寄り添って暮らしてきたそうです。香港でよく知られる客家の城壁村は新界の元朗(ユンロン)にある「錦田吉慶圍」ですが、内部のほとんどの建物が安普請な壁材などへ改修されてしまい、歴史的建造物としての価値は失われつつあると言われています。
下記は、新界の沙田というところにある城壁村「曾大屋(別名「山下圍)」の写真です。錦田吉慶圍より保存状態が良く、かつ、観光地化されていないということで、早速尋ねてみました。




この城壁村は、1850年代に曾一族という石工で成功した客家の一族が建てたものです。150年以上を経た現在、石積みと青煉瓦の壁は灰色っぽくなり、軒のところどころに草も茂っていますが、かなりの部分が残されており、年期の入った落ち着いた佇まいが感じられます。
城壁の壁は3層分の高さで、壁面の1層部分は白壁、2層部分は青煉瓦、2層と3層の間に軒があり、3層部分は石と青煉瓦という構成です。1-2層は住居として使われており、3層目には等間隔に銃眼のような穴があり、その内部は低い廊下のような造りではないかと想像しました。
城壁の壁の最上部には、客家人の生活風景を描いたものでしょうか、美しい壁画が残されています。また、軒の最も外側の軒桁(丸桁)には細かい木彫りが、城壁内部の石の壁(上部)にも細工が施されています。壁画をはじめとするこれらの繊密な装飾は、質素な壁をとても味わい深いものにしており、修復できたらさぞ趣のある建物になるだろうと感じました。
一方で、壁の外側が駐車場として使われており、背景の高層アパート群と城壁に沿って停められた車の風景は、ちょっと残念な眺めでもありました。
壁はそのまま家屋の外壁でもあり、方形の城壁の四隅は4層位の砲楼となっています。四隅の建物部分は3層まで住居として使われているようです。壁や砲楼には、昔銃眼として使われていた小窓が沢山あったようですが、生活しやすいように大きな窓や玄関へ改修されたそうです。
壁の中に入る入口は3箇所。ここは現在も人々が生活しているため、住人の方に会ったら一言断りを入れてから中へ、とガイドブックにありましたが、平日の昼間でほとんど人がいない状況でした。壁の内部に建つ(城壁側ではない方の)家屋は2層の長屋で、その壁も青煉瓦と白壁の造りで、壁画が残されていました。家の前には井戸があり、自転車や子供の遊具が置かれていたり、洗濯物が干されていたりと、生活感の感じられる中廊下、というか中通りといった感じです。さらにその長屋の奥へ通じる入口を入ると、中庭風の集会場のようなスペースがあり、歴代のお歴々の写真などが飾られていました。
flickrのフォトアルバムから昔の曾大屋のスケッチ(写真左/江啟明作)をみつけました。そこには小道から続く低い石塀の奥に、緑に囲まれた曾大屋が描かれており、悠々たる城壁村の風情に溢れています。元朗の錦田吉慶圍のように内部の建物の多くが改築されるような事態を防ぐためにも、このような歴史的建造物の記憶と客家人の生活文化を後世に伝えるための対応が急務と感じました。




客家の生活文化を探る場所として、MTR港島線の終点駅・柴湾にある羅屋民俗館があります。ここは、客家の羅一族が200年以上前に建てた家屋ですが、改修されて香港歴史博物館の分館となっています。(分館と言っても、修復された1棟の建物と附属の建物のみの小さな施設です。)

写真左:ビルの谷間に唯一残った修復前の羅屋の家屋(羅屋民俗館パンフレット)
写真右:修復後。羅屋民俗館として公開。

民俗館でいただいた資料によると、18世紀初頭、約300人の客家人が深川の辺りから南下しここ柴湾へ移り住み、羅屋、成屋、藍屋、陸屋、西村、大坪村の6つの客家村をつくり農業を営んでいたとされています。これらの村は、上記の曾大屋のように城壁に囲まれておらず、樹木や林によって囲まれていたようです。彼らは村の近くの土地で野菜や果物をつくり、豚や鶏などの家畜も飼っていました。
しかし、20世紀前半の香港の急激な開発の波にのまれ、村は次々に取り壊され、唯一、この羅屋だけが残されました。1976年に羅屋の民俗博物館としての保存が決定、1989年に歴史的建造物として指定、1990年に羅屋民俗館がオープンしました。
この建物は、柴湾地域に住んでいた客家の典型的な家屋の構造だそうで、120㎡ほどの広さに、平屋3棟がコの字型に組み合わさった形をしています。奥の棟は前の2棟より若干高く、両脇の部屋にそれぞれ寝室や作業場などを兼ねた中二階があります。
このような客家の建物が多く点在していた柴湾も、今では高層アパート密集地帯となってしまいました。ビルの谷間に場違いのように残された羅屋民俗館のほかは、往事の様子を伺い知ることのできる農地も建物も道も残されていません。
香港中心部の唐楼の保存・再利用がやっと始まった香港で、沙田の曾大屋のような郊外のベッドタウンに点在する客家の建物や生活文化に対する支援が行われるのはまだ当分先の話かもしれません。

おわりに

ヨーロッパでは、香港よりも半世紀近く前から、歴史的な都市空間の再生や古い建造物の保存に対する大きな動きが始まっていました。1962年のフランスのマルロー法では、都市の歴史的・文化的・美的な価値は、歴史的な建造物に限らず、市街地を構成する建物と空間全体にあるとの思想に基づいた建築・都市再生のための法制度がつくられました。また、1967年のイギリスのシビック・アメニティ法では、歴史的・建築的に価値のある古い建物の保存・改修を行う法制度がつくられています。また、そもそも第二次大戦後に遡ってみると、住民が瓦礫の山から煉瓦や石を一つずつ拾い上げて建物を復元し、元通りに再現された街がフランス、ドイツ、ポーランドなどに数多くあり、これらが地域の人々の地域に対する愛情と誇りを育てています。
一方、日本では、1970年代初頭から歴史的建造物や街なみ保存への関心が高まり、1975年の文化財保護法改正により伝建地区(伝統的建造物群保存地区)の制度が誕生、秋田・角館、長野・妻籠、岐阜・白川郷などを皮切りに歴史的な価値の高い建物や街なみの保存・再利用の取組みがなされてきました。しかし、その関心は未だに住宅などの一般の建物に行届いているとは言い難く、2004年の景観法制定後も、保存・再利用されるべき多くの建物が取り壊されています。

今回、久しぶりに香港を訪れて、益々近未来的な都市へと変貌する街の姿に驚きました。競い合って建つビル群の中に無数のショッピングセンターが連なり、エアポートエクスプレスや地下鉄などの公共交通機関と連結し、SF映画の舞台のような空間です。
スクラップ・アンド・ビルドが当たり前の香港の街に取り残された古い建物の歴史を覗いてみると、「高層ビルがどんどん建ってしまう。大好きな香港の雰囲気が失われ、どこも同じような風景となってしまう」という地域の焦りを感じます。地域の記憶のない街ほど味気ないものはありません。今回取り上げた中区警署、唐楼、そして客家の城壁村が、地域の豊かな風景の一部となり、香港の街の歴史の厚みを伝える役割を担ってゆくことを切に期待しています。
(2011年5月)