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塩飽本島(香川県丸亀市)

知られざる塩飽水軍の栄華

香川県・丸亀港から船で30分ほどの塩飽本島(しわくほんじま)という島に「笠島」という美しい集落があります。
塩飽本島は、瀬戸内海の塩飽諸島の中心島で、香川から岡山へ向う瀬戸大橋の左手に見える島です。塩飽諸島とは、岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ28の島々を指し、戦国時代、いかなる藩にも属さず(=年貢を納めず)、住民主体の自治を築いた「塩飽水軍」が活躍したところでもあります。
塩飽水軍は、操船技術に優れ、当時比類のない「塩飽船」を造り、信長、秀吉、家康の戦いに海の戦力として貢献。幕末、太平洋横断を成功させた咸臨丸の乗組員50名のうち35名が塩飽出身者だったことからも、塩飽水軍の操船・造船技術の高さを窺わせます。(写真左下:信長、秀吉、家康により与えられた朱印状が納められていた石櫃(手前)とこの石櫃が納められていた御朱印庫(奥の蔵)。(塩飽勤番所所蔵))

また、塩飽水軍は、近海で漁業を営む漁船から年貢を徴収する権利を獲得し、経済的な基盤を築きました。江戸初期には、幕府の御用船として活躍し、巨万の富を島に運んだといわれています。僅か6.7k㎡の小さな島に、24の寺院と11の神社があったとか。経済的な繁栄とともに高い文化水準を維持していた証でもあります。

塩飽水軍の統治は、「人名(にんみょう)制度」により行われました。秀吉は、塩飽の船方衆に対し、領地を複数の人々に共有させる人名制度を認め、船方衆は「大名・小名・人名(にんみょう)・士・農・工・商」の内の人名と呼ばれていました。島の政務は、人名から選ばれた4名の年寄によって執り行われ、この時代としては他に例を見ない住民自治が育まれ、幕末まで続きました。その人名が多く住んでいたのが、塩飽本島の東側にある港町・笠島集落です。

その後、塩飽船方衆の繁栄は、江戸中期頃から勢力拡大に転じた大阪の回船問屋などの台頭により徐々に衰えてゆきますが、彼らはこれまでの船大工の技術を生かし宮大工や家大工へ転身、「塩飽大工」と呼ばれ、江戸後期から明治にかけて瀬戸内地域の腕の良い大工として活躍しました。また、多くの塩飽大工が中国・関西方面へ出稼ぎに出て、今に残る国宝・重文級の寺社仏閣や屋敷の建設を手掛け、塩飽大工の名を世に知らしめたといいます。
笠島集落には、当時の船方衆がその富と建築技術の高さを誇示するように粋を凝らして建てた屋敷が並んでいます。本集落は、1985年に国の重伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に指定され、塩飽水軍から綿々と続いてきた本島の歴史を偲ばせる風格のある佇まいを残しています。

塩飽大工のつくった洗練のまち

笠島集落は、東西・南北とも約200mの地域で、北を海に面して港を擁し、他の三方は山に囲まれています(左上の地図:『丸亀の文化財』丸亀市教育委員会。右上のジオラマ:本島市民センター所蔵)。
東側の山はかつて城のあったところで、南と西の山麓には五つの寺がありましたが、うち4箇寺は廃寺となったそうです。一方、集落の南側付近には当時の代官や地頭の館があり、このため、集落は北側の港に表を向けない、港を裏とする宅地割で、山の手側である城や館に表を向けて建てられていました。また、集落の玄関口も、港ではなく東小路の南端を入口と位置付けていたそうで、今なお、町の一部にこれらの特徴を見て取ることができます。これは、笠島集落の歴史的・地理的特性ゆえに形成された都市の構造であり、笠島の集落が日本の他の地方の港町や漁村の構成とは全く異なると言われる所以でもあります。

写真左:西山の麓にある尾上神社(大正5年築)。優秀な大工の育成を目指した「組合立塩飽補習工業学校(明治30年〜大正9年)」の生徒が建築実習として再建したもの。この学校には、塩飽諸島のほか、岡山など瀬戸内の町からも生徒が学びに来ていた。塩飽大工の技術が広く評価されていたことを窺い知ることができる。

笠島港に面した建物群。港に表を向けない構造が見て取れる。背景の城山の緑(写真左)や尾上神社付近の緑(写真右)が、焼き杉板壁の建物の風情を引立てている。


笠島集落内の道は、南北を結ぶ東小路と、東西を結び海岸線に並行して走るマッチョ通りがメインストリートとなっており、他の路地に比べ道幅も比較的広くなっています。マッチョ通りは、昔「町(賑やかな)通り」と呼ばれていたのが「マッチョ通り」となったそうです。
東小路や田中小路が緩やかなS字型、マッチョ通りが弓なり型と、多くの通りが緩やかなカーブを描いており、また、通りの両端が枡形であったり、T字路や食い違い十字路(交差点となっている十字路の片方がずれている十字路)で交わるなど、見通しを悪くし敵の侵入を防ぐ工夫が随所に凝らされています。これらは塩飽諸島の他の集落には見られない計画的なまちづくりと指摘されていますが、このような歴史的な要因により形成された街路の特質が、今では、まち歩きに訪れる旅人の想像力や期待感を刺激し、かつ、魅力的なアイストップの機能を果たしており、質の高い街路空間の源となっています。さらに、ゆるやかな坂道、道の行手に見える海・港の風景や山の緑といった地形的な要素と相俟って、何度でもそぞろ歩きがしたくなるような場所をつくり出しています。

写真左:東小路とマッチョ通りの食い違い十字路
写真右:東小路から脇道を入る。緩やかなカーブが続く。


写真左:マッチョ通りの東端の枡形
写真右:港に抜ける小径


笠島集落内の伝統的建造物は、江戸から大正にかけて建てられた「ツシ二階造り」と呼ばれる中二階の低層の家並みで、東小路やマッチョ通りを中心に残されています。その建築様式は、本瓦葺きの切妻造、片入母屋造、又は入母屋造の平入形式で、一層部分に腰高格子や出格子窓などを組み合わせた表構え、二層部分に虫籠窓や格子窓が設けられています。外壁は、漆喰壁、焼き杉壁が多く、アイストップとなる角の家などにナマコ壁も用いられています。


写真左:本瓦葺きの緩やかな勾配屋根の軒や庇が上下・前後に顔を出すリズム感が美しいルーフスケープ(屋根並み)。軒先の緑や、排水路に架かる短い石の渡しが、さらにこの通りのアクセントとして効いている。(東小路)


写真左:焼き杉板の塀。焼き杉板は、杉板の表面を炎で焼いて焦がし炭化させることで得られる高い耐久性がある。素焼きの場合、100年保つとも言われる。古くから日本各地の民家に使われてきたが、この辺の地域でも容易に手に入り比較的安価なことから広まった。風雨の影響で徐々に表面が剥がれ下地の杉板の表面が出て斑模様となり、良い風合いが出てくる。

写真左:親子千本出格子窓の表構え
写真右:優雅な持送り等の木製建具、側面の黒々とした焼き杉板壁、漆喰の白、そして本瓦。自然素材の質感と色彩のハーモニー。

写真左:珍しい黒漆喰の壁(白漆喰の上の部分)を発見。黒漆喰は、左官技術の中でも極めて質の高い仕上げと言われる。
写真右:井戸と煤竹の井戸蓋。小径の佇まいを引き立てる。


写真左:玄関脇の竹の花器に生けられた花
写真右:美しい石垣の小径

写真左:裏庭の家庭菜園。奥には海が見える。
写真右:港から通りを覗く。温暖な島の植栽も、笠島集落の街並みの個性である。



これからが本当の「まちづくり」

以上のような魅力的な街並みは、重伝建地区選定後に補助を受けながら石積みや外壁の補修、建具の付け替えなどが行われてきた成果でもあります。修復を重ねながらも、自然素材の質感と風情はしっかり引き継いており、風格と品を兼ね備えた町家建築と街路空間、身近に水のある風景など、質の高いまちなみ景観を構成する多くの要素がつまっています。

しかし残念なことに、全ての通りは静まりかえり、住人・観光客を問わず人の姿を見ることは稀です。「田中小路」などの裏手の路地には、崩れかけた空屋や錆びたトタン壁の民家なども見受けられ、建物の老朽化への対応も喫緊の課題です。

多くの船方衆が出稼ぎに出始めた明治期から、塩飽諸島の経済は徐々に出稼ぎ人の島へと変わり、本島をはじめとする島々の高齢化・過疎化が進みました。「笠島まちなみ保存センター」によると、笠島地区内の建造物(51軒)のうち40%ほど空家(2011年8月現在)で、墓参りや盆・正月だけ戻る地権者も多いそうです。

そこに生活や商いを営む人々の息遣いがしてこそ町が生きている証であることを考えると、本島・笠島にとっても高齢化・過疎化は唯一にして最大の問題といえます。
しかし、人が減ってしまったことばかりを嘆いてはいられません。本島の持つ地域資源の底力をもってすれば、魅力ある地域づくりと観光を軸とした地場産業の底上げができるはずです。本島の活性化に関わる多くの人々が、本島が持つ潜在的な地域資源の可能性を信じ、これを守りながら活かすための知恵と行動力を発揮したとき、本島は、往時の塩飽水軍の栄華を凌ぐサステナブルな地域へ、さらなる進化を遂げることができるでしょう。


左の写真は「ほんじまコンシェルジュ」(塩飽本島観光案内所)の三宅邦夫氏(右)と信原清氏(左)。
東京、大阪での勤務を終え故郷に戻り、本島の地域振興に尽力されています。塩飽本島観光案内所HP(http://www.justmystage.com/home/honjima/)は三宅氏の手作り。本島ならではの歴史、文化、自然を守り、育て、発信してゆきたいという三宅氏、信原氏の情熱に、住民主導のまちづくりの可能性を強く感じました。


(2011年8月。2012年5月追記。)