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草津温泉

草津ならではの温泉街文化を未来へ

草津温泉は実に魅力的な温泉地です。何がそんなに魅力なのか ー それは、強酸性で自噴湧出量日本一を誇る泉質の素晴らしさ、江戸時代から続く「湯もみ」や「時間湯」などの湯治の文化、そして、「湯畑」を中心として発展してきた温泉街文化が今も息づいているから、という三点に集約されるのではないかと思います。(写真左:湯畑広場)
ここでいう草津の「温泉街文化」とは、語り尽くせないほど様々な側面を持っているといえます。上信越高原国立公園の美しい自然を背景とした山麓の町としての数々の魅力。白根山の噴火でできたすり鉢状の窪地に町の中心・湯畑が位置し、毎分4,000リットルのお湯が湯けむりを舞い上げながら木樋を通り滝壺へ流れ落ちる独特の景観を守り続けてきたこと。湯畑を中心とした「広場」を核に四方八方に道が伸びる面的な広がりを持った(日本では珍しい)まちの構成を有していること。窪地には31カ所の湧出口があり、このお湯を利用した共同湯が点在していること。昔から「せがい出し梁造り」の建物が多く並んでいた家並みは、今もその一部が残され又は復元されていること。すり鉢の斜面を走る細い曲がりくねった小道・坂道が迷路のように続いていること…など、その特性を挙げたらきりがありません。

草津温泉街の成り立ちをみると、平安時代末期頃に現在の湯畑の周りに掘建小屋のようなものが建てられた頃に遡ります。その後、室町時代には温泉街としての小集落が形成されるようになり、江戸時代に入ると徳川幕府の直轄地へ。そして、江戸中期には「草津千軒江戸構え」と称されるほどの最盛期を迎え、年間7,000人の湯治客が訪れたとも言われています。
昔から湯畑の周りには沢山の湯屋(共同湯)がありました。現在のようにほとんどの宿が内湯を持つようになったのは明治期以降であり、江戸時代に内湯を持っていた湯宿(旅館)はごく一部に限られ、ほとんどの湯治客は、外湯である湯屋で湯に浸かっていたのです。

草津町が所有する明治18年の絵図(写真右)には、湯畑を取り囲むように7つの湯屋が描かれています。光泉寺の薬師堂から湯畑へ下る石段を下りた左手(右の絵図では、石段の右側)に「御座の湯」、湯畑を取り囲む木柵に沿って南側(同絵図では湯畑木柵の上の部分に隣接)から時計回りに「かっけの湯」「滝の湯(天狗滝、薬師滝、不動滝)」「ちよの湯」「まつの湯」「わたの湯」が並び、湯畑の南西(同絵図では「かっけの湯」の右手)に「ねつの湯」がありました。
これらのうち、「御座の湯」と「ねつの湯」を除いた残りの湯屋は、明治後期から昭和後期にかけて、旅館の内湯整備の充実、湯畑周囲の道路の拡張、湯量の減少などに伴い、残念ながら閉鎖・取り壊されてしまいました。
「ねつの湯」は、昭和中期から共同湯としての機能に加え観光客向けの湯もみショーを開催、昭和43年には湯もみショー専用の観光施設(「熱の湯」)となりました。「御座の湯」は「白旗の湯」へ名前が変わり、湯畑の周囲に唯一残る共同湯として住民や湯治客・観光客に愛されてきました。現在は、かつての湯屋の場所が「白旗源泉跡」として残され、別に、熱の湯の隣に白旗源泉を引いた「白旗の湯」が建てられています。
また、取り壊された「まつの湯」の跡地には「湯けむり亭」という足湯が整備され、「滝の湯」があったところは、木樋を通った湯が湯壷めがけて湯滝となって流れ落ちる姿を眺めることのできる小さな広場になっています。湯滝の岩盤には、高温・強酸性の湯に生きる珍種の生物(紅藻類)「イデユコゴメ」が生息しており、エメラルドグリーンの岩肌に湯が流れ、ゆらめく独特の景観を眺めることができます。

湧き出る大量の湯を幾筋もの木樋を通して湯滝へ運ぶ「湯畑」という、他に例を見ない特異な存在。そして、この湯畑を取り囲むように設けられた数々の湯屋。この湯畑と湯屋群により形成されたかつての湯畑広場の景観は、草津温泉が最も「草津らしい景観」をとどめていた頃のものと言えるでしょう。
現在の湯畑広場は、一見するとかなり変わってしまったようにも見えますが、よく観察すると、随所にかつての湯畑広場の名残を見ることができます。
これからも、先人が守り続けてきた湯畑を大切にしながら、湯畑広場だからできる&湯畑広場にしかできない「草津らしい景観」を守り、育て、発展させていくことが求められています。
(2009年12月)